德田靖之律師與我

原文刊載於 苦勞網公共論壇 2007/04/13 公共論壇 賴澤君   德田靖之先生是日本漢生病國賠辯護團團長。2001熊本地方法院判決日本漢生病隔離法違憲訴訟勝訴,成功使日本社會開始反省過去對漢生病的誤解與岐視,並且進一步正視病友數十年受到國家人權侵害的回復工作。當時判決的和解條件,律師團成功為病友爭取到國家道歉、賠償、承諾終生照護、在園保障至園區剩最後一人。(可惜這個理念卻成為在台灣漢生法案,在立院遭捷運局及地方立委杯葛不過的理由!)   儘管2001之後,日本律師團為漢生病友爭取人權的工作,有了階段性的成果。但是他們致力人權實踐的腳步卻未曾停歇。2004同屬律師團成員久保井攝來台。2005年樂生院保留的抗爭如火如荼展開,同年二月、三月、分別因為呂副總統一句「國家重大建設,病友不搬賠得起嗎?」加上當時行政院否決共構可能,我們的運動宣告失敗。   但同時也因此,展開阿嬤阿伯跨海國際連代的運動。因此我有機會更進一步認識國賠律師團團長德田律師。他的個頭精練,臉上總是堆著慈祥的笑容。還記得2005年4月第一次在長島及大阪集會後,深夜德田與久保井律師,特別留下來請我和昌人吃宵夜,其實語言不通我們沒有多談,而且因為太累我們四人竟然是邊打瞌睡邊吃完拉麵(笑!)。之後五月我再陪阿添伯,許姨等自救會成員到熊本參加勝訴五週年紀念會。聽德田律師說明,他希望將漢生人權運動在全世界實現。   參與跨海串連,因為學生與院民的身份,我們並不敢奢望有許多發言機會。德田律師發現這點,特別在他的家鄉大分協助我們進行國際串連連署工作,並首次正式介紹我們團體組成。他提到我們海報中弱勢人權四字,與他的理念一致。之後他們為我們進行的國際反迫遷連署竟然有一萬多人,引起日本社會高度支持樂生保留的議題與病友人權。   但是那年七月,台灣政府並未改變拆遷樂生的決策。因為我們的力量微弱,很遺憾有許多重病房的老人家及外省阿伯都因為怕再被國家棄養,不得已乖乖被遷移進新大樓。為了擋住一波一波官方的壓力,藝文界朋友開始在大樹下辦活動,也逐漸改變樂生內部團體的結構,讓更多人走進樂生。   10月25日東京勝訴,台灣告贏日本政府。陳總統說要立法補償。回到台灣因為心急病患權益如何在法案中實踐,卻因為內部聲音擔慮「談賠償,可能樂生不保」。我相信「賠償」是國家認罪的証明,因此轉而投向「立法推動」的運動。也因此,因為無法在樂生主流聲音被完全理解,「法案組」始終是樂生運動的孤鳥。   「漢生人權保障條例」挾東京勝訴,2005年表面上很快通過一讀進入協商二讀。實際推動過程「暗潮洶湧」。履次抄遭捷運局杯葛,首長民代私下「動作頻頻」,而面對立法院政治生態,憑院民和幾個青年人單純的背景,一年半來,老人家跑斷了腿,也有些心灰意冷,要和政客鬥「是自不量力」吧!   去年四月院民首次到總統府「提國賠請求」。德田律師來台,我們談到呂伯的訴訟,一次一次法官駁回的理由是「基於傳染病防制法,病友沒有相關權益」。很明顯,漢生病人在台灣,沒有法律保護下「形同褫奪公權終身」這是怎樣的一個國家?德田律師跟我說:「他如果是台灣律師,一定要幫漢生病友要國賠打訴訟!」。我不是律師,但相信「如果立法能還給漢生病友公道人權」我會繼續努力。   去年立法聯盟想幫院民國賠訴訟,但苦於孤立無援。一年過了,今天德田律師和他的夥伴,如魚雁往返,沒有放棄台灣。可喜的事,法律扶助基金會的律師,也承諾接下國賠訴訟的工作。甚至我們一起繼續呼籲台灣政府、立法院「盡速立法保障漢生人權」,呼籲透過立法程序、完成保留院區、還原歷史真相、亦以司法程序要求政府道歉等歷程,奮鬥到底的決心。 這篇文章發表時剛好是樂生院保存面臨危急存亡之際,當時還無法想像..日後樂生院的命運 當時德田律師也帶領日本律師團趕來台灣聲援樂生院返拆遷要保存運動五千人大遊行活動 當時各界聲援保存的聲音鋪天蓋地而響,一切終於有了生機,有了轉圜的奇蹟。 2007年5月30日行政院終於拍板同意樂生院保留最大的530案。 2008年1月 樂生院民李添培等人第一次參加在印度海德拉巴的世界漢生大會 2008年8月 立法院終於通過漢生人權保障暨補償條例。同月新北市政府指定樂生院全區歷史建築 2009年3月 邀請美日韓馬挪威夏威夷等國代表來台灣舉辦全球漢生病跨國聯合申遺世界遺產會議 2009年8月 樂生院被文化部指定成為台灣第十三個世界遺產潛力點 建議標籤: 人權樂生院保留運動歷史 事件分類: 200410樂生療養院遭拆除 2021/5/5日翻譯 徳田靖之先生は日本のハンセン病国賠弁護団団長である。2001年熊本地方裁判所の判決で日本のハンセン病隔離法違憲訴訟に勝訴し、日本社会が過去のハンセン病に対する誤解と偏見の反省を開始することに成功した、また、元患者が数十年にわたり国から受けてきた人権侵害を直視し被害回復する作業を一歩前進させた。当時の和解条件として、弁護団は元患者のために国から謝罪、賠償、終生保護、最後の一人までの在園保証を勝ち取ることに成功した。(この理念が台湾のハンセン法案にないのは残念、国会、MRT局、地方議会ボイコットの理由) 2001年の後にもかかわらず、日本弁護団は元患者の人権を勝ち取るため、段階的成果を上げた。しかし、彼らは人権実践の歩みを止めることはなかった。2004年、弁護団員の久保井摂が台湾を訪れた。2005年、楽生院保存運動を大々的に繰り広げたが、同年2月、3月、呂副総統の一文「国の重要な工事が動かない場合、元患者らは損害を賠償できますか?」に加えて当時政府が共同建設(?)の可能性を否決したことにより、我々の運動は失敗に終わった。 しかし同時に、おばあさんおじいさんたちは海を越えた国際的運動を展開した。それにより私は国賠弁護団団長の徳田弁護士とより親しくなる機会を得ることができた。彼は頭脳明晰で、顔にはいつも優しい笑みをたたえている。2005年4月、大阪集会の後初めての長島において、深夜徳田弁護士と久保井弁護士が私と昌人を夕食に招待してくれた。我々は言葉が通じずあまりお話しできなかった。でもとても疲れていて4人は居眠りしながらラーメンを食べ終えた(笑!)。その後、5月、私は再添さん、許さんら自救会のメンバーに同行して勝訴5周年記念会に参加するため熊本に行き、徳田先生の説明を聞いた。彼はハンセン病人権運動が世界中で実現することを望んでいた。 国際連帯の運動に参加しているのは学生と元患者であり、話す機会がたくさんあるとは思っていませんでしたが、徳田弁護士は、これを知り、とくに彼の故郷大分で国際連帯署名の仕事を手伝ってくれました。初めて我々の団体を正式に紹介してくれました。彼は、我々のポスターの4つの脆弱な人権が彼の理念に一致すると言及した。その後彼らは我々のために移転反対の国際署名を進め、その数は1万以上に達し、日本社会が楽生院の保存と元患者の人権を大いに支持する原因となった。 それでも、7月、台湾政府は楽生院移転の政策を変えようとしない。我々の力が弱いため、多く病棟の高齢者と外省人のおじいさんが再び国に見捨てられるのを恐れて新病棟に移らなければならないのが残念である。官の圧力が押し寄せるのを阻止すべく、文化芸術界の友人らが大樹の下での活動を開始し、より多くの人を楽生院に入らせ、楽生院の内部団体の構造を徐々に変えている。 10月25日、東京で勝訴し、台湾は日本政府に勝利した。陳総統は、補償のために立法すると述べた。苦しんでいる患者の権利をいかにして法案に取り込ませるか、そために台湾に戻る。しかし、内部の心配の声は「賠償を言えば、楽生院は守れない」。「賠償」は国家が罪を認めた証拠であると信じ、立法推進運動に目を向けた。楽生院の主流の声がよくわかっていないので「法案組」は終始楽生運動の孤独の鳥であった。 東京で勝訴したことにより「ハンセン人権保障条例」は2005年表面上は速やかに一読を通過し二読に入ったが、実際の動かす過程は「暗黒の潮流が荒れ狂う」であった。MRT局はボイコットを繰り返し、(このへんよくわからず)国会の政治生態に直面した。院民と幾人かの青年の単純な背景に頼り、この1年半、老人たちは足を折り、がっかりして、政治家との戦いに敗北した。 去年4月、院民は初めて総統府に「国家賠償請求」をした。徳田弁護士が台湾を訪れ、我々は呂さんの訴訟について話し合い、何度も裁判官が拒絶する理由は「伝染病予防法において院民には関連する権利がない」。台湾の元患者は法の保護が与えられず、「生涯公権を奪われている」。これってどんな国なの?徳田弁護士と私は「私がもし台湾の弁護士だったら、きっとハンセン病元患者のために国賠訴訟をするだろう」。私は弁護士ではないが、「法律によってハンセン病元患者に人権を回復させることができる」と信じ、努力を続けることはできる。 去年連盟は院民の国賠訴訟を支援することにしたが、孤立無援に苦しんでいる。1年がたち、今日、徳田弁護士と弁護団は、魚や雁が行き来する如く、台湾を諦めてはいない。喜ばしいことに、法律扶助基金会の弁護士が、国賠訴訟の仕事を引き継ぐことを約束してくれた。我々はともに台湾政府、国会に「至急ハンセン病元患者の人権を保障する立法をせよ」と呼びかけ続ける。立法手続きをせよ、院民の居住区を保存せよ、歴史の真相を明らかにせよ、司法手続きを通じて政府は謝罪せよ等を要求し、最後まで戦う決意である。

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